高千穂 雄山 とは

2024年07月21日 12:02

《 雄山の人となり 》

✳️私の師匠でありのちにパートナーとなった高千穂 雄山は非常に優れた超能力者でした。人格的にも、社会的にも、自己の成長に務めていたことも含めて非常に優れた人間でした。

日本では主に透視能力とパワーを駆使して、体調不良の方々を元の健康体に戻す仕事と、人生の諸問題に苦しむ人々に真の解決策を伝え、実行を助け、真に幸せになって行かれるための支援を行ないました。

✳️雄山はいわゆる第三の目が開眼されていました。生まれつきなのか、さだかではありませんが、14年勤め上げた会社を退職し独立してから、人の役に立つことを探して奮闘している頃から、必要に迫られて気がついてきました。

✳️彼は周囲の人々に愛されました。施術・相談に訪れる80歳代のおばあちゃんから、2〜3歳のお子さん達まで、また知能に障害を持ったお子さんたちにも慕われました。

✳️雄山は、政治、経済的、金融、マスコミ、世界各国について---など、あらゆることに精通していました。

一度見たもの、聞いた事は、将来必要となるであろう物事を瞬時に選び分け、雄山の脳内にはまるで収納ケースが存在するかのごとくきちんと種類別に整理され、記憶保存されていました。

そして必要時にはすみやかに引き出されました。よって答えられないものは無いのではないかと思えるほどでした。SNSのない時代にあっては貴重な能力で、それは仕事においていかんなく発揮されました。

たとえば地球上のスポーツは全部で200種類くらいあるそうですが、雄山はサッカー、野球を始めとして約47種目について、まるでファンであるかのように語ることが出来ました。

野球ファンならば雄山は、ぜったいに自分と同じ球団のファンだと皆さん思っていたと思います。しかし彼はそうではありませんでした。どの球団にも興味があっただけだったのです。

ある時、世界最高峰のモータースポーツのファンが、これにはたぶん付いて来れないであろうと「 F1」について雄山に話しかけましたが、雄山は当然かのようにそれらに答えて驚かせました。

また🇹🇭タイ・バンコクに移住して何日も経たないうちに、タクシーの運転手さんに道を教えていました。

✳️けれど、雄山は決して自分が優れていることを自慢したり、ひけらかすことはありませんでした。

雄山には姉が2人おり、そのうちの1人は歌うことが大好きで、カラオケで録音した歌をしばしば雄山に聞かせていました。実は雄山は歌は「実力歌手」と友人達に言われていて、お姉さんよりはるかに上手だったのですが、彼はその事をお姉さんには一度も話したことは無く、ただニコニコと嬉しそうに聞いているのみでした。


《🇹🇭タイ移住の理由》

🍀それは2001年9月11日、2977人の死者と約100億ドルのインフラ被害・物的損害を与えた🇺🇸アメリカの同時多発テロの翌年のことでした。

ちょうど日本ではサッカー⚽️W杯が初めてのアジア開催、それも日韓同時開催ということで沸き立っている年でした。

🍀2002年1月のことです。相談を受けて行なった透視で雄山は日本の将来が非常に危険⚠️であることを読み取りました。

理由の1つは国の経済破綻。2つ目は天災です。両方とも一個人の力ではとうてい阻止することの出来ないことでした。

国債という名の国の借金はたしか約800億円くらいと発表されていた時代です。雄山は国債が日本国民の貯金総額を超えると日本の経済は危ないと捉えていました。

しかしすでにその総預金額1,400兆円を超えて来たと見通しました。海外に貸してあるお金が相当額あるから日本経済は大丈夫だという意見もありますが、それを回収するのはほぼ不可能だと見通してもいました。

天災についても地震・火山噴火・台風襲来と天災大国である日本ですので、日本人の危機意識はゆるい。その時はまだ東日本大震災も起きてはおらず、今よりもっと危機感のない時代のことでした。

🍀雄山は海外へ移住することを決断しました。この危険を回避するためには、ほかの選択肢は無い!と判断していました。

あれから20年余りが経った今、日本はまだ維持されています。杞憂であったという意見もあるとは思いますが、今となっては雄山の透視した事柄を肯定する人は多いと思われます。

🍀雄山は資料を集め、決断の3カ月後に移住する国の選定を行ないました。そして外国に不慣れな日本人が移住をしても、暮らして行けそうな国を5か国選び出しました。

それは🇦🇺オーストラリア、🇺🇸ハワイ、🇪🇸スペイン、🇲🇾マレーシア、🇹🇭タイの5カ国でした。この中から、透視能力を使い高千穂美喜に最も合っている国としてタイを選びました。

そして4ヶ月後に下見を行ない、その2ヶ月後に移住を果たしました。移住を決定してから10ヶ月後のことでした。

🍀日本を立つに当たって、当時会員であった何十名の方達を呼んでセミナーを開催し詳細を説明しました。その時私たちは必死でしたが、今思い返してみますと、同伴することが決定していた私でさえ、移住を受け入れるのに3日間は混乱したくらいですので、皆さんどのくらい理解されただろうか---?と思います。

🍀けれど数人の会員は私たちを慕い、何回か🇹🇭タイの私たちの元へも来てくれ、雄山他界後はタイに移住も果たしました。しかし移住には決意、資金、言葉の問題などいろんな条件が必要です。皆さん全員が限界を感じて日本に帰って行ってしまい、移住は意外に難しいことなんだ〜!と感じざるを得ませんでした。


《🇹🇭タイでの生活》

🌟雄山はタイでの生活を楽しみました。タイ在住の日本人や少数ですが通訳を雇ったタイ人を対象とした透視相談、セミナーなどを開催するともに、創設されたばかりのタイランドエリートビザを取得し、無料で受けられるサービスを使って、ゴルフやスパをしばしば楽しみました。

タイランドエリートの送迎サービスを使って、何度か海外旅行にも行きました。エジプトの三大ピラミッドを透視したり、カンボジアのアンコールワットも読み取りに行ったことなどは非常に印象深い思い出となりました。

🌟タイに移住した直後は、写真を撮ってもらうと、雄山と私にはもっと笑って下さいと注文がつくほど硬い表情が取れませんでしたが、タイの伸びやかな空気に体も慣れてくるにつれ、気持ちも伸び伸びして大声で笑い合えるようにもなってきました。


《雄山、天寿を迎える》

🪐2012年の後半、雄山は病に倒れました。
私は雄山が先に逝くなどと考えたこともなく、2人で最低100歳まではいきると信じていました。

雄山は40年間、病気で病院に行ったことがありませんでした。病気にも何度かかかりましたが、どのような事が起きても自然治癒力とパワーで回復させてきました。今は私がその生き方を踏襲しています。

🪐病気で倒れた時2人で話し合って、今まで通りのやり方で、回復を試みることにしました。しかしどんな病もほぼ回復させられるけれど、寿命は人間技ではどうしようも無いということです。雄山は眠るように最期を迎えました。

🪐「僕はこのままであっても充分幸せなんだよ!」と彼は何度か言いました。そして亡くなるひと月前のある朝突然、「実力、名声共に私を超えました。ニューリーダーの登場です!」と私に言いました。それまでそのようなことを言ったことは一度もありませんでした。

🪐私は数日たってから雄山に言いました。
「私は雄山に育てられて今日まで来ることが出来ました。いわば雄山は私の親のような人です。」、「親は子を産めるけど、子は親を産むことは出来ません。ですから私が雄山を超えることは不可能ですから」そう言いました。

雄山より優れたい、など思ってもいませんでした。回復を誰よりも望んでいて、これまでのように、雄山の鮮やかな能力を見て楽しみながら人様のお役に立って生きていたいと心から願っていたのです。けれど雄山は自分の寿命を感じて、それまで一度も言ったことの無いことを私に伝えて「後は頼むぞ」という事を言っておきたかったのかもしれません。

🪐ふたたび何日か経ってから雄山は、「あのように言われて---嬉しかったよ。」とポツリと言いました。そして翌月の始め、2月13日の午後、いつものように歩行訓練から戻ってベッドに入り静かに天界に旅立って行きました。

🙏あれから11年。たくさんの皆様のお力をお借りして、私は今日も元気に生活しております。そして、こうして雄山のことを書くチャンスを与えて頂けたことを心から感謝しております。
         (2024年7月13日・記)

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